1980年代後半~1990年代前半のソウル、R&Bシーンを牽引した“New jack swing(ニュージャック・スウィング)”は16ビートのリズムとフレーズの反復を多用したファンクにヒップホップの手法を取り入れたR&Bである。
そんなニュージャック・スウィングは天才ラッパー兼プロデューサーである“テディ・ライリー”によって産み出されました。
日本におけるニュージャック・スウィングはブレイクダンスやエレクトリックブギ(電気が走るような動き)にソウルダンスを融合させた『ヒップホップダンス』の一つという認識が強いですね。
三代目J Soul Brothersのヒット曲で知られている”ランニング・マン“や足を交互に跳ね上げる”チャールストン“がステップとして取り入れられています。
本記事では、ヒップホップダンスとして今だに根強い人気がある『ニュージャック・スウィングの名曲10選』をご紹介したいと思います。
Keith Sweat feat.Teddy Riley 「I Want Her」
ニュージャック・スウィングを語る上で切っても切り離せない1987年のキース・スウェットのデビューアルバム「Make It Last Forever」に収録されている大ヒットシングル。
ヒップホップ畑にいたテディが難色を示していたソウルミュージックの制作に携わるきっかけとなった楽曲であり、正統派なバラードシンガーであったキースがダンスシンガーとしても広く知られることとなった楽曲である。
当時はまだニュージャック・スウィングというタームはなく”プログレッシブ(進歩的)R&B”と表現されていました。

Guy 「Teddy,s Jam 2」
ニュージャック・スウィング全盛期の1990年にリリースされたテディ・ライリーが率いるR&Bグループ”ガイ”のセカンド・アルバム「THE FUTURE」に収録。
前作でもシングルカットされていた「Teddy,s Jam」の続編として作成されたもので、テディ曰く“パーラメントやファンカデリック(いずれも60年代に活躍したファンクバンド)”が新しいフィーリングで帰ってきたみたいな音楽をイメージしたそうです。
ニュージャック・スウィングやファンクのネクストステップとして語り継がれる一曲。
Guy 「D-O-G ME OUT」
“浜崎あゆみ”のプロデュースに携わったことでも知られるミックスエンジニアの”デーブ・ウェイ”がソングライティングに加わったギターサウンドが印象的なダンスナンバー。
メインボーカルを務める”アーロン・ホール“は勿論、アーロンの実弟である”ダミオン・ホール“の歌声も堪能できる楽曲。
ちなみにシングルカットされた上記のPVはなぜかラップ主体(笑)アルバム収録の「D-O-G ME OUT」は歌物で、もはや別曲である。
本記事ではとりあえず2曲をピックアップしてみたが、「THE FUTURE」こそがテディの最盛期。ニュージャック・スウィングを踊りたければ、このアルバム聴いとけば大丈夫!的なマストな1枚。

H-TOWN 「Treat U Right」
1993年。シーンに彗星の如く現れて、オリコンチャートを駆け上った3人組ヴォーカルグループH-TOWNのファーストアルバム「FEVER FOR DA FLAVOR」より抜粋。
超18禁な内容の連発で一躍旋風を巻き起こしたマイアミのラップ集団”2ライヴ・クルー“のリーダー”ルーサー・キャンベル“が立ち上げたレーベル”ルーク・レコード“から異例のデビューとなった彼ら。
本楽曲は、ミディアム・アップテンポな男らしい曲調が特徴的なニュージャック・スウィングではあるものの、リリックの内容は濃厚+セクシー+エロティック(笑)さすがはルーサー・キャンベルの仕事と言ったところか。
アルバム全体としては、意外にも正統派なスロージャムが並ぶ(その変わりといってはなんだが、リリックは超過激)

Bobby Brown 「My Prerogative」
1983年。当時、少年アイドルグループとは思えないほどのボーカルセンスとダンススキルを持ち合わせていた”ニュー・エディション”のセカンドボーカルとしてデビューしたボビー・ブラウン。
1986年に私生活の行動などが原因でグループを脱退し、ソロ活動へ転身。2年後の1988年にリリースされた大ヒットセカンドアルバム「Don,t Be Cruel」からピックアップ。
ボビーとテディ・ライリーの名を知らしめたニュージャック・スウィングの代表曲。脱退に対する批判を一掃するように”自分自身で決めてやる。それが僕の特権なんだ“という力強いリリックが表現力を挽き立てています。
2004年当初、私生活でゴタゴタがあったブリトニー・スピアーズもカバーするなど、世代を超えて愛されている楽曲です。
Bobby Brown 「Every Little Step」
同タイトルのアルバムより”LA・リード&ベイビー・フェイス”プロデュースのダンスナンバー。憧れの女性との恋愛を爽快に歌ったリリックへの共感から日本でも人気が高く、ボビー・ブラウンと言えばこの曲をあげる方も多いのではないでしょうか。
先程の「My Prerogative」のムービー内でもご覧いただいたように、ニュー・エディションを脱退後のボビーはヒップホップダンスのレッスンを相当していたことが観てとれます。
全体とすればミディアム・スローナンバーが並ぶセカンドアルバム「Don,t Be Cruel」がニュージャック・スウィングの金字塔として語り継がれている背景には、ボビーのパフォーマンス向上に対する熱意が産んだ結果なのかもしれません。

Ralph Tresvant 「Stone Cold Gentleman」
ニュー・エディションで不動のメインボーカルだったラルフ・トラスヴァントから一曲ピックアップ。
ラルフの音楽人生を注ぎ込んだこの曲には、クルー脱退後のボビー・ブラウンがラップで参加しています。
この曲の制作段階でラルフはボビーにニュー・エディションの脱退を考えていることを打ち明けていたそう。しかし「ニュー・エディション存続にはラルフが必要だ」ということを訴えかけて引き留めたのは、他ならぬボビーだったという。
Johnny Gill 「Fairweather Friend」
ボビー・ブラウンの脱退、ラルフ・トラスヴァントがソロ活動を視野に入れ始めたことを懸念し、ラルフが去った後のメインボーカル候補としてニュー・エディションに加入したのが、ソロシンガーとして実績があったジョニー・ギルでした。
ニュー・エディション加入後の1990年にリリースされた2枚目のセルフ・タイトル作である「Johnny Gill」(1983年にも同タイトルをリリースしている)より抜粋。
色気のあるストロングボイスを活かしたLA&ベイビーフェイスプロデュースの大ヒットシングル。洗礼されたニュージャック・スウィングのダンスナンバーである。

BELL BIV DEVOE 「Do Me!」
ニュー・エディションのメンバーであるリッキー・ベル、マイケル・ビビンス、ロニー・デヴォーの3人によって結成されたグループのファースト・アルバム「POISON」に収録された代表曲。
トラックはモロにニュージャック・スウィングそのものではあるものの、アルバム全体としてはラップ要素を多く取り入れ、のちのヒップホップソウルの先駆けとなるような作品である。
当時、彼らがストリートの申し子と評されていたのも頷けます。

Michael Jackson 「Jam」
「スリラー」や「Bad」、チャリティー曲「We are the World」で知られる名プロデューサー”クインシー・ジョーンズ”とのタックを解消し、テディ・ライリーが全面的にプロデュースに携わった「DANGEROUS」に収録されている一曲。
ロックやソウルを中心としたサウンドで構成されていたマイケルの楽曲にテディのサウンドが加わったことは、ニュージャック・スウィングが90年代前期のポップスシーンにどれだけ影響を及ぼしいていたのかを物語っています。
でも、もう彼のパフォーマンスは”マイケル・ジャクソン”という確立された1つのジャンルだと思います(笑)

まとめ
ポップ、ロック、ソウルの音楽ジャンルで3部門をノミネートしたキング・オブ・ポップ”マイケル・ジャクソン“だけでなく、ファンクシーンを象徴するバンドだった”アース・ウィンド&ファイアー“などの有名バンドもこぞってニュージャック・スウィングを取り入れていました。
80年代後半~90年代前期の音楽シーンに多大なる影響を与えたテディ・ライリーが産み出したサウンドは90年代中盤に差し掛かると少しずつ陰りが見え始め、より洗礼された正統派ソウル、よりドープなヒップホップソウルが支持を得ることになります。
テディが新たに率いたグループ”ブラックストリート“のデビューアルバムに、1年以上の期間を費やしたことからも、制作に難航していたことがうかがえます。(サンプリングの著作権がクリアできなかった経緯もあるらいしが)テディ自身、ブラックストリートのサウンドを“ニュージャック・スウィングではなくヘヴィーR&Bだ“と語っていたことが一時代の終焉を表していたのかもしれません。
しかしながら、ガイやニュー・エディションの活躍により一世を風靡したニュージャック・スウィングは次世代の音楽、ダンスシーンに語り継がれ、今も愛されている音楽ジャンルであることに変わりはない。
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